少しだけ悪化した世界で働いているだけのことしかなくて

カーシェアリング、シェアハウス、わたしたちにぴったりのユートピアがあるのだが、もう終わりにしようじゃないか。
…わたしたちは外出自粛が解かれたあと、真新しい世界で目醒めるわけではない。世界は、以前と同じままか、あるいは少し悪化しているだけなのだろう。

新型コロナウイルスをめぐって/ミシェル・ウエルベック「少し悪化した世界に」(試訳) - 汽水域にて

 

「未曾有のウイルスの流行によって私たちの生活は一変し

おそらく今年最も見かけた言葉は例のウイルスの名称だろう。先日本屋の思想コーナーに行った際に、アフターコロナの思想本が並んでいるのを見かけた、カミュのペストが異例の売上というニュースを見かけた。私たちの思想や、消費動向は社会によって変化していく、ただ、今年は特に外部要因から承認される形で急速に進んだのだろう、と思う。通常は目に見えぬ感覚でゆっくりと進んでいくものが、ウイルスによって承認を得た。観光業が過去最悪の売上を見通し、大量の個人飲食店が閉店を余儀なくされている。コロナの死者よりコロナによって変化した経済原因の死者の方が多いだろう。死んでいくものは、速度によって殺されただけでいつか死ぬものだったのだろう。世界は確かにほんのすこしだけ一変したように見える。家具は変わらない部屋で配置を変えたらしっくりこない家具が生まれた、だから捨てたのだ。日当たりを重視するために部屋の配置を変えたら、今まで収まっていたスペースに収まらなくなった箱が一つあった。

ねえ、今年は親しい人にどれだけ出会った?ねえ、わたしたちの生活はそんなに変わった?

もちろん変わってはいると思う。でもそれはほんのすこし、目に見えるところから箱が一つ消えただけ程度にしか実際は感じてないのだ。そして、目が覚めたら普通に戻っていることを我々は望んでいる。でも、普通に戻ってももうその普通がどんなものだったのかなんてどうせ思い出せやしない。

インターネットなしに人と人が出会い、正当な医療を受け、マスクなしに自由に対面で人抱き合うことを望んでいる。テクノロジーの躍進がいくらあれど、モノとモノの物理的な感情が戻る朝を多くの私たちは望んでいる。望んでいながら、自分たちの生活のために消費されていく社会の個人の部品には思いを馳せたりしない。加湿器は加湿器の仕事をすればいい。信号機に名前はない、深夜にネット決済を行っても、そのサービスを維持するシステムを監視する立場の人は見えない。

たとえそれが後世においてどのように愚かなことであっても、今の私たちには何を判断することもできない。賢さや正しさを決めるのは歴史だ。私たちのほとんどが死んでから評価は下される。私たちは生きている間に何が良いか悪いかを決定し選択することはできない。できないままにテクノロジーは社会は変容を続ける。アップデートできないのは人間だ。人間はすぐにアップデート内容がクソか最高か口煩く言いたがるのだ。アップデートはアップデートでしかない、我々の気持ちが社会全体の中では修正すべき軽微なバグのひとつなのだろう。

冒頭の引用はミシェルウェルベックが、2020年の54日に新型コロナウイルスを巡って、というタイトルで発表した文書だ。私はこれがとても好きだ。ほんの少し悪くなった世界、ほんの少し悪くなり続ける世界。

生きている限り全てがほんの少し悪くなり続けるんじゃないか、昔から今に動いている私。いくつかの進行中の変化を加速させただけ。

 

わたし自身のことを話そう。わたしの話だ。わたしは今年一切、ほとんど、思考や言葉や美術、人間の持つ最も有意義なそれらに触れなかった。わたしが触れていたのは納期と品質とあらゆる調整と改修だった。それだけ。リモートワークの制度が社内に導入された時、勤続3年以下の社員は対象でなかった。緊急事態宣言が無事に出て、3年以下の社員でも特例認可が降りた時、業務繁忙期のため現場以外での労働は認められなかった。結局過去最も労働した一年となった。年間残業時間がまさか転職して一年で現状500時間に迫るとは思わなかったのだ。生活は変わった、少しづつ。そして今のわたしはそれが悪いのか良いのか全然判断がつかない。眠いと感じることがなくなった、体は慢性的に痛いが倒れなかった、仕事の問いはある意味シンプルだ、最適解を常に探して模範解答を示せばいい、泣いたり喜んだり、感情はとにかく疲れる、良いとか悪いとか判断するのはとにかく消費する。わたしは今年回答のあるものとしか向き合わなかったといえる。数字があれば人は適当に納得する、売り上げ見込み、導入後の費用改善シミュレーション、予実件数、数字があればニッコリする。そこに言葉はない。

だから今年の感情については、ほとんどあんまりわからない、それを感じたのは誰だったんだろう?でも確かにだれかはそれを素敵だと感じて喜んだり悩んだり涙したのだろう。それがだれだったのか、眠る前のわたしが今のわたしと同じなのかはわたしにはわからない。

きっと「みんな」はそんなことは考えない、自分が好きだから好き、それは正しい。私だって好きだから好きなはずだった。でもそれって全部疲れてしまうのだ、「好きじゃない人の気持ちを考えなさい」と私が問う。私が喜んだ時、どこかの私が悲しむ人だっているんですよという、完全に人に迷惑をかけず人の手を介さず、人に影響を与えない行為がしたい。ネットに接続できない環境で、人のいない場所を、ひたすら歩き続けたい。何のサービスを使っても、どこにいても何を食べても、社会に影響して誰かを働かせてしまう、誰かを消費してしまう、そういうのからひたすら離れていたいと思うことがあった。

北海道の、人口1000人に満たない場所、日が暮れて行って、街灯もなくて、月明かりしかない崖で、つがいの鹿がいたのを覚えている。

白く見えた、多分月明かりのせいで。あれはとても綺麗で誰にも迷惑をかけていないものだった。もちろん生きている上ではどこかに迷惑をかけて何かを殺して生きてはいるけど、あの瞬間だけは何にも影響されていなかった。お互いだけだった。わたしはそれを、こういうのは写真にとってはいけないのだと思った。

 

言葉は怖いと思う。私は簡単に物語を読むことも、何かを好きだというのも怖い。というか疲れるのだ、どこかの可能性の消費のことを考える。向き合い方がわからない。何度も何度もただ生きているだけで、誰かに迷惑をかけていることを思う。

でもそうは思わない人がいるよ?楽しむなんて不謹慎じゃない?この世のどこかに今死んでいる人がいて、いまはたらいているひとたちの、くるしみによってあなたは生かされているよ。生かされているだけだよ、もっと苦しむべき、誰かが今頑張ってくれているのに、明日頑張らないなんて許されるの、そんなの楽しんでいいの?つらい、つかれた、ってもっと頑張っている人がいるじゃない

それでも、いくつかの素晴らしい言葉の中にはたまにその時の私にとって「これは私だ、私の言葉で、私のための言葉だ」と思うようなものがふいにある。それだけでいいのだ、と思えるような。木々の間に立って、白く発光する鹿のふたつの影を思う。月に引っ張られるようにのびている角、その角のさきからたどって、光があって、それを覚えていればそれがお守りになるような気がした。たとえ、そのあとの私が私でなくても、その瞬間は確かに私のためにあったと思えた。

そんな言葉が本当にごく稀にあって、だから今日も少しだけ悪化した世界で目を覚ますことができる。そんな言葉が、誰かの言葉になったら、それはとても嬉しいことだと私は思う。少しだけ悪化していく中で、少しだけ輝いているものが、そんなものたちが、

それは祈りであって、唱える言葉だった。

 

来年はどんな私が、どんな言葉を見つけるのか、明日も少しだけ最悪だよ、許されないよ、でもどうせ許されないし生きて行かなきゃいけないしお金を稼がないといけない汚い人間なら、綺麗なものに少しだけすがることを許してください。