たくさんの異教徒よ

急に無気力になってしまった。しなければならないことを祈りと呼ぶ、日課とは祈りだ。日本の祈り、なんというか神社やお寺で初詣なんかで手を合わせる時、大抵「なりますように」「ますように」と祈るだろう。願望を叶える力を神が持っていて、叶えてくれるように頼むわけだ。しかし、キリスト教においての祈りは違う。「頑張るので見守っていてください」と祈る。あるいは神への感謝である、今日も一日わたしが生きていけたのは神が隣にいたことの証である。願いの披露ではなく、信仰からくる気持ちを表すもの、それが祈りだ。祈りの効果は、人が1人生きることへの傲慢さを和らげる、苦しみに耐えるわたしのそばに神がいる、他人の苦しみはどうしようもできない、最終的には神の導きである、すべては神のみ心のままに


体が細くないのだ、どうやってもがっしりしてしまう、しなやかな骨を目で追ってしまう。

(わたしがわたしに満ち足りていないのは神への背徳である、神がわたしを愛する以上に他の何を求めよう?わたしが今生きているならばそれは神の思し召しであり、それに対し自己で何を望もう?わたしがすべきなのは他者への許しと愛である、わたしを殺すものをわたしが許すことである)

わたしがわたしでないところで、わたしのことと、すべてのものをゆるし、わたしとあなたの意思だけで全てが満ち足りますように。


祈りとは習慣だ、問いかけだ、私と私の中だけの神との反省会であり日記帳である、それ以外のすべてはわたしのための試練であり、実存はしていない。習慣だけが、繰り返しだけが、わたしを肯定する。

それ以外の価値観はいらない、わたしはわたしと、わたしのそばにいる神だけが許せば、すべて良いのである。すべて良い、いつだってしねますように、いますぐしねる、あなたに会いに行くときに最も美しい精神と体でありますように。

今日も帰ってジムに行く。