とりとめのない2月

絵を描ける人、ピアノが弾ける人、何か物を作ることができる人、キラキラした料理が作れる人、特定の分野に詳しい人、全部素晴らしい。なんでって、私が出来ないからだ。

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顔が美しい人は素敵だ、私が持っていないからだ。わたしはとくに、私が持っていないものを最初から持っていて、その持っていることにきちんと誇りと、努力からくる少しの傲慢さのある人が、とても好きだ。そして好きだからこそ、そんなもの全部なくなってしまえ、と思う。

外に出たくない、物が多すぎるのだ、欲しがることをしたくない、本だけ読んでいればそれでいいはずである。人と会うことは怖い、ひとりで反省会が多い、わたしは今日一日、きちんとしたわたしでいることができただろうか?場に合ったわたしだった?規範に従っていた?

だから本当はもっと人のいないところにあるべきなんだ、なんにもないところにいれば、わたしはわたし自身が、本当に好ましいと思うものを手に取ることができるのだと信じている。だって、仕事帰りの12時過ぎにネットで買った服なんて、気に入らないままそんなに使わないじゃん、雑誌も、インスタも、通り過ぎる人の服や、流行のファッションニュースも見ないで、たまたま行ったお店で気に入った服の方が気にいることができるじゃん、何もかも誰かに振り回されているだけ。この部屋の何が、わたしが本当に愛したものだった?わたしはいつからピアノを愛していた?

写真を昔はよく撮っていた。むかし、なのは、昔は地方に住んでたからで、ゆうやけとか鉄塔とか撮ってても、誰にも見られなかったから。

人が多すぎると、空もゆっくり見れない。

「写真撮るのきれいだね」と言われたことが何回かあって、うれしいけど、景色はうまく撮れない。ゆっくり、ピントとか、配置とか、光とか、考えて外で撮るの、しかもiPhoneで、恥ずかしいなと思うから、恥ずかしいって何だ。

何だろうね、何のために、毎日1時間電車に乗って、輝かしい、まあ輝かしいんだろう、都心部を縫って遠く、遠くに行って、働いて、手に入れたお金で、見られたい形を作ることに躍起なんだ、わたしは、そしておそらく大部分の誰かも。  幸せになりたいのか?幸せにみられたいのか、幸せになる過程で、幸せにみられるのか?幸せにみられるから幸せなのか?全部おんなじことではあるような、ないような…

2月は休みが全然なくて悲しいので、明日明後日はお散歩にでも行こう、お散歩して、ご飯を自分なりに栄養考えて作って、筋トレして、お部屋を綺麗にして、そういうことの繰り返しが心地よいのだ、たぶん。

丁寧な暮らしという言葉がインターネットでよく見かける、自称というより、側から見て丁寧な暮らし、と嘲るようなニュアンスで使っている人の方が目についてしまう。丁寧な暮らしって、個々人にとって最適化されている生活様式への愛だと思うのだけど、わたしは。私にとっての洗濯とか、掃除とか、長い暇つぶしの間の無意味な祈りだ。まあそんなことをツイッターでつぶやいたら、「年間休日が少なくて賃金が少ない人間は丁寧な暮らしができないってことだな」というような発言が飛んできて、ああ、そうなるのか、と思った。そうか、そうなるよな、休みが欲しくて、多忙な人ははそうなるのかもしれない、そうじゃないはずなんだ、そういう意図があったわけじゃないよ、でも、私が何かに焦がれたときに、いや、そんなものいらないという気持ちになる時みたいに、そう怒ることで穏やかさを得る人もいるんだろうな。丁寧に暮らす、丁寧に、じぶんの機嫌を自分でとって、長い長い暇つぶしをしていくための術なだけなのだ。そうじゃないと、無限に憧れて悲しくなるだけだから。私がうまれもって得ることができず、これから先も得ることのできないものへ、憧れるわけでもなく、貶すわけでもなく、ただそれはそういうものだ、として、ただ綺麗だ、素晴らしい、と眺められるように、私は私の機嫌をとり続けなくてはならないのだ、だから毎日丁寧に、丁寧に洗濯物を干して、畳んで、机を拭いて、お花を飾って、お香を焚いて、床を磨くしかないのだ。

なんだろうね、東京〜品川間にいるとここにいる全ての人が生きていることが本当に怖いなぁと思う、イヴァンのチョコ、大丸に買いに行く元気が出ません。東京駅怖い。イヴァンのチョコは、生きてきた中で食べたチョコの中でいちばんおいしいです。次に美味しいチョコはあっさりショコラです。


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きょうは天冥の標を読んでいた。まだ5巻、ゆっくりなのもよいものですね。


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仕事に行く前のごはん。

炊飯器でサラダチキンを作る術を身につけた。


あしたは散歩に行くんだ、散歩に。