完璧なモンブラン

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仕事帰りに完璧なモンブランを食べた日、わたしは完璧なわたしではなかった。完璧なわたし、という気分のことを誰しも多少はわかる、という気持ちになりはしないだろうか。完璧の基準は人にもよるけれど、あくまでわたしにとってわたしがある程度出来上がっている、という感覚、これ以上は変わらないなという感覚。これ以上は、そうだな、美しくなれない、可愛くなれない、これ以上は賢くなれない、これ以上は満たされない、そういう限界のところ、そういうものはないだろうか。ない人もいるんだろうなあとは思うのだけれど、わたしにはある。これ以上は、到達できないんだろうな、これでわたしにとっては完成だなという感覚。これ以上を追い求めるのは、これ以上登ろうとするのは疲れるなという気持ち。登山でいうと、そりゃきちんと鍛えればいまの年齢でも夏の穂高は登れるだろう、さらにきちんとした装備、それも結構お値段がするものを買い揃えれば冬の穂高にも登れるかもしれない。けど、どんなに装備を買っても、どんなにお金があって、どんなにきちんとしたところでトレーニングを積んでも、冬のエベレストの南西壁ルートは登れない。どんなにいいガイドを頼んでも、無理だ。天才とか、生まれとか、そういうものがないとたどり着けない道と山頂は確かにある。そんなものに憧れるのは悲しいことである。そんなもの、最初からほとんどの人は辿り着けないようにできている。


わたしは、美醜の話をするのが少し苦手だ。なぜかというと、わたしがわたし自身を醜いという感覚が消えないからだ。無条件に美しいという言葉が出てくる一握りの美しく気高い雪山ではない。だから、何かを堂々と、特にめのまえにあるひとりの人間に対しては、外見を褒めるのも苦手だ。

美醜というのは、だいたいなんというか主観が混ざる、好みというか、嗜好が混ざる。こういう綺麗さが好きだ、というのはある程度男女問わず持っているものだろう。だから、誰かにとってまあいいなと思うものは、誰かにとって全然最悪なものであったりする。逆もまたそうだ。大抵のことは、好みが釣り合う人間同士でまとまって、好みが逆なものを良くないなあと思うようにできていると思うのだ。だからわたしが何かを良くないと、醜いと思うと、きっとその対象はわたしを醜いと思うのだろう、と思っている。そしてわたしは誰かにそう思われるのが本当に怖いのだ、わたしがわたしの好きな、わたしの良いと思うものだけでいい!と言い切ることができない。

何かを良いと思うことは、その反対の何かを良くないとすることであり、その反対の何かは、良いとされた何かを嫌だと感じてしまうのではないか、と思ってしまう。言ってしまえば、誰からもすばらしく良く思われたくないし、とても悪くも思われたくないのだ。羊毛というアカウントではなく、わたし自身は、なんの害もなく、なんの良さも与えず、ごく普通に通り過ぎるだけの、無関心な一つのものでいたい。そう思うからこそ、羊毛というアカウントで、綺麗なことを集めているかのように呟いてしまうのだろう。わたしは、わたしが良いと思うものはなんだ、わたしの完璧はどこにあるんだろう。わたしは、通りすがりの小さな、誰かに何も与えず、だからこそ誰からも何も奪わず、誰かを蹴落とさない代わりに、誰かを救うこともしない、そういうただのものになりたい。そして、そう思うと同時に、やはり綺麗で遠い、雪山のことをどうしても憧れてしまうのだ。絶対にわたしがわたしであるうちは、たどり着けない雪山。雪山は遠くから見るから綺麗である。雪山は、雪山自身の美しさをながめることはできなくて、ただ人々を惹きつけ、ただ人々に美しいと言われるのだ。羨ましいと素直に思う。好みを超えたところにある美しさ。


完璧なわたしではなかったのは、まずお気に入りのリップを朝、自宅に忘れてきたからで、お気に入りのカバンを持っていなくて、お気に入りの服装をしていなかったからである。社会の通りすがりの一つとしてあるための、単純に働くためのわたしだった。働くためのわたしだったけれど、親友が素敵な女の子とのお茶をセッティングしてくれたのでそちらに向かった。完璧ではなくても、好きな人と会うのはもちろん楽しいし嬉しいものである。しかし、完璧であればもっと喜べたよなぁ、と思ってしまうのだ。好きな人と会うときは好きなわたしでいたいでしょう。そして、お茶で向かったお店がまた素敵だった。わたしは純喫茶の赤い椅子が好き。そして食べたモンブランが完璧だった。まず土台がメレンゲというのがいい、崩さずに食べられて、ガチャガチャ綺麗な食器で音を立てたりしない。モンブランは大変美味しかったです。素敵な女の子は表情がコロコロ変わる子で綺麗だった。わたしは感情が多い人が好きだ、話すことが多くて、好きなものと嫌いなものが多い人が好きだ。言葉が少ない人は怖い、何を考えているのかわからないから。自分は何かを否定したり絶対的に肯定することが苦手なのに、それをまっすぐにできる人が好きだ。人は自分に足りないものを持っている人を好きになるというが、わたしがよのなかのたくさんのものをたいてい好きだなあと思うのは、わたしがわたしに対し足りないと思っていることが多いからなのだろう。

しかし、いつだって完璧でいるというのもおそらく疲れてしまうのだろうか、完璧だと思っている誰かも、己を完璧ではないと思うこともあるのだろうか。

明日は5時起きなので寝ます。社会のひとつの会社の中のわたしよ、また明日もわたしでいてください。