GW

質問箱にブログや文章が好きですと送ってくださった方々、ありがとうございました。

ブログたまにしか書かなくてすみません。もう最近は物語をかけるほどの何かへの恨みや、強い憧れや思いというものがあんまり出てこないのです。何かに強烈に憧れていて、それでもそこが程遠いと知っていて、ただ憂鬱で、そういうものから遠く離れてしまったように感じています。単に歳をとって仕事が忙しくなったというだけです。人の希死念慮というものは、それが憂鬱からくるただぼんやりとした希死念慮というものは、ある程度社会的に満たされてしまえば、ある程度なくなってしまうんだと思います。そこそこの承認、そこそこの賃金、すくなくとも、都内でまあ毎日暮らしていける程度の。

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わたしはわたしに似ている人間が特に怖い、同族嫌悪といえば簡単だが、わたしと似たようなものを好み、わたしと似たように取り繕っている(ように見える)人が特に怖い。なぜならわたしの破綻しているところをわたしが一番わかっているから。丁寧に暮らしたがっているくせに丁寧なものを嘲笑っているようなところがある(現代においては、高尚な貴族ほど、丁寧にややこしい暮らしの手順を踏んで、規則正しく運動をし、健康に気をつけ、自分が選んだ良いものを集め、資本主義と健康に呪われている)

自己に厳しく他人に優しくしたいくせに、自分を甘やかしたくて仕方ないし他人に怯えている。

理想との乖離を埋めたいくせに、結局のところとことん追い詰めることができない(とことん追い詰めるならば本当は健康でいられるはずがない)

結局のところ、自分に甘いし、完全になることができないので、他者が怖いのだ。他者が怖いから自分をなんとかよく見せたい、よく見せる過程で自分をなんとか矯正したい、そういうところがあるから、自分と似たような(これはもうなんとなくの感でしかないが、なんとなく似た、感じ、というものがあって、あるのだ)人、がなんとなく距離を置いてしまう。

憧れや好みというのは特に怖い。自分の理想とかけ離れた何かを一つ持っていただけで憎悪、嫌悪になってしまう。京極夏彦魍魎の匣において、とある女の子を崇拝するほどに好きだった女の子が、たったひとつの首筋のニキビ(ニキビだったか?)を見つけてしまっただけで憎悪に変わってしまう描写がある。まあこれはよくあることで、好きなアイドルが結婚したらCD全部割って殺害予告するとかそういうやつだと思う。何かを好む感情は恐ろしい、人間は恐ろしい。そういう思いがあるから、わたしはわたしと似たような人間が特に怖いのだ。

だからわたしと全く違う思考を感じる人がわたしは好きだ、ご飯を食べながらニコニコしている人が好き、心の底から他人にすごい!と言える人が好き、彼氏の悪口をものすごく言える人が好き、他人にめちゃくちゃ怒る人も好き。

まあ我々は全てただの人格であって、人間ではないのですが。

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何を考えているのかわかんないものは良い。


やっとゴールデンウィークというものを、まあただの三連休を迎えたので、明日からは筋トレと家事と読書に勤しみます。また、明日も。たぶんまたその次の休みも。それだけで生きながらえていくしかない


とりとめのない2月

絵を描ける人、ピアノが弾ける人、何か物を作ることができる人、キラキラした料理が作れる人、特定の分野に詳しい人、全部素晴らしい。なんでって、私が出来ないからだ。

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顔が美しい人は素敵だ、私が持っていないからだ。わたしはとくに、私が持っていないものを最初から持っていて、その持っていることにきちんと誇りと、努力からくる少しの傲慢さのある人が、とても好きだ。そして好きだからこそ、そんなもの全部なくなってしまえ、と思う。

外に出たくない、物が多すぎるのだ、欲しがることをしたくない、本だけ読んでいればそれでいいはずである。人と会うことは怖い、ひとりで反省会が多い、わたしは今日一日、きちんとしたわたしでいることができただろうか?場に合ったわたしだった?規範に従っていた?

だから本当はもっと人のいないところにあるべきなんだ、なんにもないところにいれば、わたしはわたし自身が、本当に好ましいと思うものを手に取ることができるのだと信じている。だって、仕事帰りの12時過ぎにネットで買った服なんて、気に入らないままそんなに使わないじゃん、雑誌も、インスタも、通り過ぎる人の服や、流行のファッションニュースも見ないで、たまたま行ったお店で気に入った服の方が気にいることができるじゃん、何もかも誰かに振り回されているだけ。この部屋の何が、わたしが本当に愛したものだった?わたしはいつからピアノを愛していた?

写真を昔はよく撮っていた。むかし、なのは、昔は地方に住んでたからで、ゆうやけとか鉄塔とか撮ってても、誰にも見られなかったから。

人が多すぎると、空もゆっくり見れない。

「写真撮るのきれいだね」と言われたことが何回かあって、うれしいけど、景色はうまく撮れない。ゆっくり、ピントとか、配置とか、光とか、考えて外で撮るの、しかもiPhoneで、恥ずかしいなと思うから、恥ずかしいって何だ。

何だろうね、何のために、毎日1時間電車に乗って、輝かしい、まあ輝かしいんだろう、都心部を縫って遠く、遠くに行って、働いて、手に入れたお金で、見られたい形を作ることに躍起なんだ、わたしは、そしておそらく大部分の誰かも。  幸せになりたいのか?幸せにみられたいのか、幸せになる過程で、幸せにみられるのか?幸せにみられるから幸せなのか?全部おんなじことではあるような、ないような…

2月は休みが全然なくて悲しいので、明日明後日はお散歩にでも行こう、お散歩して、ご飯を自分なりに栄養考えて作って、筋トレして、お部屋を綺麗にして、そういうことの繰り返しが心地よいのだ、たぶん。

丁寧な暮らしという言葉がインターネットでよく見かける、自称というより、側から見て丁寧な暮らし、と嘲るようなニュアンスで使っている人の方が目についてしまう。丁寧な暮らしって、個々人にとって最適化されている生活様式への愛だと思うのだけど、わたしは。私にとっての洗濯とか、掃除とか、長い暇つぶしの間の無意味な祈りだ。まあそんなことをツイッターでつぶやいたら、「年間休日が少なくて賃金が少ない人間は丁寧な暮らしができないってことだな」というような発言が飛んできて、ああ、そうなるのか、と思った。そうか、そうなるよな、休みが欲しくて、多忙な人ははそうなるのかもしれない、そうじゃないはずなんだ、そういう意図があったわけじゃないよ、でも、私が何かに焦がれたときに、いや、そんなものいらないという気持ちになる時みたいに、そう怒ることで穏やかさを得る人もいるんだろうな。丁寧に暮らす、丁寧に、じぶんの機嫌を自分でとって、長い長い暇つぶしをしていくための術なだけなのだ。そうじゃないと、無限に憧れて悲しくなるだけだから。私がうまれもって得ることができず、これから先も得ることのできないものへ、憧れるわけでもなく、貶すわけでもなく、ただそれはそういうものだ、として、ただ綺麗だ、素晴らしい、と眺められるように、私は私の機嫌をとり続けなくてはならないのだ、だから毎日丁寧に、丁寧に洗濯物を干して、畳んで、机を拭いて、お花を飾って、お香を焚いて、床を磨くしかないのだ。

なんだろうね、東京〜品川間にいるとここにいる全ての人が生きていることが本当に怖いなぁと思う、イヴァンのチョコ、大丸に買いに行く元気が出ません。東京駅怖い。イヴァンのチョコは、生きてきた中で食べたチョコの中でいちばんおいしいです。次に美味しいチョコはあっさりショコラです。


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きょうは天冥の標を読んでいた。まだ5巻、ゆっくりなのもよいものですね。


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仕事に行く前のごはん。

炊飯器でサラダチキンを作る術を身につけた。


あしたは散歩に行くんだ、散歩に。




人の道は、自身によるのでなく、歩く人が、その歩みを自分で決めることができない

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私の好きな私の部屋

生きているといろんなことが望むにも望まざるにもあり、健康でいることも、あしたまた働ける体でいることも、人を愛したり愛されたりすることも、すべて誰かが決めた気まぐれの上に成り立っている。病は全ての人に平等に降り掛かかり、ただの運でしかない。人間が選択したことは決してその人の実力ではない。全部ただのありきたりな不幸と幸福だ。だから明日不治の病になることもあるし、明日仕事を失うこともあるし、明日自ら線路に飛び込むかもしれない、明日誰かに裏切られるかもしれないし、明日本当に些細な不注意で人を轢き殺して多額の賠償金を背負うこともある。明日見知らぬ人に見知らぬ罪で殺されて、それがあなたの夫が殺されて、あなたはひとりで子供を抱えて生きていかなくてはならなかったりする。そんなことはないだろうとあなたは思うだろう、でもあなたの子供がいじめられてあなたの子供があなたを憎むかもしれない、全ての人が、全ての命のつながりが、なんの苦しみもなんの事故もなく穏やかに終わることはない。全ての人は老衰で死なない。全ての人は苦しむことなく死んだりしない。

好きな映画がある。インファナルアフェアという映画だ。「生きていくことが1番の地獄」ということが描かれる映画だ。綺麗にかっこよく楽しい中で死ねた方がいい。だけど、生きることはそんなことではない。生きていくことが1番な地獄だ。

だからどんなに幸福でも、恐ろしい。目の前で笑う人が明日も笑っているとは限らない。だからこそいま生きなくてはいけない。

生まれなければなんの苦しみも喜びも味わわずに済んだというのに。私は幸福である、私は幸福であるからこそそう思う。

また来年も、わたしと、わたしが好きなごく一握りの、両手で足りる程度の人間たちだけは、とんでもない不幸に合わずに、わたしの好きな人達だけは幸福で居続けることができますように。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。